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私の10代は病気の基礎を作り上げる時間だったと思います。
実家が新宿で毎日のように歌舞伎町に遊びに出ていました。そして暴走族のお兄ちゃんからヤクザ屋さんまでお付き合いが広がり、20歳前に北九州に飛びました。
私が居なくなった後は、実家に嫌がらせの電話が頻繁にかかってきて、父をノイローゼにさせてしまっています。そういう電話と言うものは昼間ではありません。人が寝静まる夜中や朝方とまともではなかったことを後で父に聞きました。私は「知ったことじゃない」!「私が悪いわけじゃない」といつもの言い訳で固めていました。
ある時、日本酒をあびるほど飲んだ時でした。周りで覚せい剤を使っている人がいて、「やるか?」の言葉に簡単に自分の腕を出して使うようになりました。そこからは人としての生活は全く送れなくなります。薬が切れてくるとひたすら寝ます。そして異常に食事を食べます。体の中で薬を欲しがる衝動と戦い、紛らわせるために度数の強い酒を飲みます。
そして心臓が破裂するような苦しさを止めるために、精神薬を大量に服薬してろれつが回らない状態でいる。どれをとっても私の周りからは、人はいなくなりました。もちろんお金なんてありません。依存出来る男性に近寄り、自分の思い通りにしていました。地獄ですね。
けれど、だんだんに地獄の生活と言うものは慣れてくるんですね。悲しいことに、それが当たり前になるんです。あまり時間がかからないうちに私は口がきけなくなりました。手話は勉強したことがなかったですが人に会うと「あ、う、あ」だけで手を阿波踊りのように動かして気持ちを伝えようとしていました。誰にも伝わらなかったですが、、、そのあと一緒にいた男が家に火をつけたことで、東京の実家に連れ戻されたのです。
10年近く家を出ていた娘は完全に人間らしさを無くし、「今すぐ酒と薬持って来なきゃこんな家燃やす」と言って壁にかかっていた父の服に火をつけました。そのあとは警察から精神病院となり、閉鎖病棟に入るのです。そこの病院で「煙草をあげるから結婚して」とプロポーズを受けたこともあります。どれくらい過ぎてからか分かりませんが、アルコール病棟に移ることになり、生まれて初めてAAのメッセージを受けることになります。「へーお酒をやめてる人なんだ。いや、きっと帰りは飲んでるんだろ」なんて思っていました。
だから退院と同時に、酒屋により飲みながら家に帰ったのを覚えています。

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