私は1999年の秋に施設に繋がらせていただきました。

あれから時間が過ぎて、今振り返ると人として生きる時間を与えて頂いたと思います。

初めて酔っぱらったのは幼稚園時代でした。家では母と祖母が毎年のように梅干しと梅酒の梅をつけかえていて、私は甘い梅酒の梅が大好きで隠れて十数個食べてふらふらする状態が面白くて幼稚園に行ったのを覚えています。
幼稚園は教会で、園長先生に礼拝堂に一日寝かされていました。
おねしょをして両親に叱られると必ず「私じゃない」「ジュースをこぼした。」等の嘘をつき、
男の子とケンカばかりしていて生傷が絶えなかったと思います。
両親に叱られてばかりでしたが、私には祖母がいつも優しくしてくれて甘えて育ちました。
両親は私にお稽古事を毎日のように通わせていましたが、やる気が全くなくて窮屈で仕方がなかったです。
ただ両親から嫌われない様にするために確かめる様に顔色ばかりうかがっていました。
祖母が亡くなり、その2年後に母が癌で亡くなりました。当時、中学1年の私は父にも周りの人全てに反抗していたと思います。
そして学校にも行かず家でお酒を飲むようになったのです。コークハイが流行っていて、私の飲む分はコップに8割ウイスキーで、ほんのすこし香りをつける程度のコーラを足すものでした。飲み方はひどかったです。一杯だけでは済まなくて、他の友達よりも何倍も飲んでひっくり返って嘔吐して終わる感じです。高校は半年ほど通いましたがシンナーが始まり家出やその他の校則違反がばれて無期停学。「もういいや」って簡単に自主退学して父に後始末してもらい遊び歩いていたと思います。
そこからは精神薬の乱用、歳をごまかしての水商売、ポーカーゲーム、パチンコ、何度も警察に捕まり、17歳の時に鑑別所に入ることになりました。
鑑別所で新たに分かったことは、自分が妊娠していることで父の傷つけ方はひどいものになっていました。でも、父が私に言ったのは「生みなさい、俺が育てるからお前は生みなさい」
私にはあり得ないことで、その後中絶する事を簡単に選びました。一人娘は父親を傷つける事しかしない生き方になって行くのです。

Oさんの場合(2)へ→